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英語の予習

「自分たちのころは英語は予習してくるのが当たり前だった」 「今の生徒は予習をしてこない」 と嘆く声を聞いてきた。 しかしここで疑問が浮かぶ。 「何をもって予習とするのだろう?」 話を聞いてきた印象では、どうも「予習」とは教科書の英文をノートに写し、単語の意味を辞書で引いて調べてくることを指しているようだ。 前者は授業中に教員が解説する内容を書き込むため、後者は和訳活動が滞りなく進行するための前提を作っていると思われる。 実際の「学習」は授業中の教員の解説が主となり、予習自体に学習効果を期待していないように思われる。 英文を写すことは定着に寄与するといった議論や、辞書を引く行為は言語学習で重要なスキルであるという主張がある。 前者はともかく、後者に関しては「予習」ではない。「予め習う」のであれば、授業中にはそのスキルの指導と評価がなくてはならない。恐らくそうはならず、あくまで和訳のための単語である。 しかも、多義語の複数の定義の中から英文に即したものを選ぶには英文のある程度の理解が必要である。これを初見の英文で求めるのだろうか? 本文を写す活動も「予習」とは言い難い。意味の分からない英文を機械的にノートに転写したところで、学習が起きていると考えるほど我々はナイーブではない。 こういった事情を考慮すると、生徒には予習よりも復習を課した方が良いのだろう。 もちろん、生徒の習熟度が上がってくればより複雑な予習を課すこともできる。 例えば、授業中に地球温暖化について議論をするので、youtubeで関連する動画を視聴し、その内容を授業中に英語で共有する、といったことだ。海外のEnglish for Specific Purposes(ESP)の授業ではこういった手法がとられることもあるだろう。 ここまでを日本の英語教育で求めることができれば素晴らしい。 ただし、指導をする以上評価をしなければならない。youtubeの動画と同じ質・量の英語を教員が扱えなければ生徒に適切なフィードバックを与えることは難しいだろう。 生徒に課す予習の内容は教員の実力を反映するということなのだろう。

声を出す活動の節度

「英語の授業で生徒の発話量を増やそう」 というスローガンが掲げられて久しい。 それはいわゆる文法訳読式の授業に対する批判であった。 英語の授業の主眼は生徒が英語を話せるようにすることだと人々が言い始めたのだ。 それでは、英語の授業はとにかく「発話量」を増やしさえすればいいのだろうか? 答えは、状況によってYesで、あるいはNoである。 生徒が発話する活動は以下のような例が挙げられる:  ・語句、英文の音読/暗誦  ・パッセージに関する応答  ・意見交換などのフリースピーチ   たとえば上記の活動を立て続けに実行し50分を終えることができるなら、それはまさに発話重視の授業であり、生徒の発話を向上させるのに特化している。それはそれでよいと思う。 実際はこうは行かないということが問題である。 おそらく、語句の発話練習をした後にパッセージを読み内容を理解しようとし、質問に答え、英文を暗記し・・・。いろいろな要素があるのである。 大まかに言うと、4技能である。「話す」「読む」「書く」「聞く」という要素が混在する。 さて、実際に授業をしていて感じるのだが、音声媒体の「話す」活動と、文字媒体の「読む」「書く」という活動を交互に行ったり来たりすると、生徒の消耗が激しい。 これは想像に難しくない。一度発声して温まった身体が読解作業で冷え、そのあとにもう一度声を出すときに身体が疲労を感じるのだ。 この問題の解決のためにどうすればよいのだろうか? 1つは「話す」活動が数種類に及ぶ場合、できる限りそれらを連続して行うことだ。 高校の英語の授業で起こりがちと思われるのがまさに上述したような、語句の発音練習の後に読解に移る形式である。 そこでこの順番を変え、以下のようにする。  1.語句の意味を確認する。 コーラスなどの発話は行わない 。  2.その語句の理解を活用して読解活動に移る。  3.読解活動の成果を活用して、語句を文脈のなかで発話練習をする。  4.パッセージに関する発話活動をする。 語句を導入すると即座に発音練習をしたくなる気持ちを抑え、静かに次の活動に移るのがよい。 「発話量を増やす」とはいついかなる時も英語を発声すればいいというわけではない。 活動の組み合わせを考え、質、量の隔たりが大きく...