マスク着用は「個人の判断」でいいのか

3月13日からマスク着用は個人の判断とされた。

なお、学校ではその変更は4月からとされた。

現在、学校現場でマスク着用を求めることはできない。

一方、マスクを外すことを求めることもできない。

まさに「個人の判断」に委ねられたのである。

外すのは自由だが、感染が怖いという教師や生徒に対しても、相応の配慮が必要ということであろう。

ただし、マスクの効用に関してはこの3年間で議論が尽くされた感がある。

アメリカCDCはコロナウイルスの感染経路は主に空気感染だと発表している。 日本の国立感染症研究所も空気感染を第一の感染経路として挙げている。

コロナウイルス感染症対策としてマスクを着用するというのなら、 その効果は極めて限定的だと認めざるを得ない。

一方、マスク着用の欠点についても議論がされてきた。

ある研究では、マスクに付着したコロナウイルスは、木やプラスチックといった表面上に付着したものと比べ はるかに長く感染力を保ったということが明らかになった。

また、マスクを着用したままの呼吸を続けることは酸素欠乏症にもつながることが危惧されている。 ある調査では、マスク内のCO2濃度は通常の空気の20倍にも上ることがわかった。 これは集中力低下や意識混濁にも繋がりかねない二酸化炭素濃度である。

つまり、マスク着用は感染症対策として効果が少ないばかりか、 むしろ総合的に見て有害でさえあると言える。

これは科学である。

科学的に見て、教師や生徒はマスクを付ける理由がないのである。

そして学校とは、科学を学ぶ場所である。

ここでいう科学とは理科分野に限らず、森羅万象全てにおける予測可能であり我々の行動の基準とすべき法則という意味である。

感染症対策としてのマスク着用は科学的ではない。「怖い」という感情も科学的ではない。

しかし、ここで問題は終わらない。

もう一つ、マスク着用が続いている理由として考えられるのが「他人の目」である。

自分の容姿を見られたくないという理由や、自分だけ目立ちたくないという理由がこれに該当する。

本来の感染症対策としてのマスク着用ではないため、コロナウイルスの感染状況に関わらずこの状況は続くことが懸念される。

多くの人が自分の容姿にコンプレックスを抱く思春期を経て大人になる。現在マスクを外せない多くの学生たちの心情は察するに余りある。

だから文科省も「マスクを外すことを強制してはならない」とわざわざ通達してきたのであろう。

そうか、ならば青少年の心理的ストレスを回避するために、マスク着用は、前述のような学習上の弊害があるにも関わらず、見て見ぬふりをしよう。

・・・果たしてそれが正しいのであろうか?

顔を隠す意図を持ってマスクをすることを容認するのならば、目元に自信がなければサングラスをつけ、頭の形が嫌いなら帽子を被ってもいいのだろうか?

多くの人がそれはダメだと言うだろう。なぜダメなのか?

それは、容姿を隠すということは回避的な行動であり、本来は不健全な態度であるという感覚があるからであろう。

学校は回避的で不健全な場所なのであろうか?

学校はストレス過剰な環境である。多くの子どもは多かれ少なかれストレスを感じている。

このストレスが人間を鍛える。ちょっとやそっとのことでは挫けない精神力を育てる。

学校は挑戦的で、健全な場所でなければならない。

他人が自分の容姿を見ている気がする。よく思われていない気がする。恥ずかしい。でもなんとか毎日頑張らないといけない。

そんな混沌とした精神状態を経ずに大人になった彼らは、このまま一生顔を隠し続けるのだろうか?

マスクをつける理由が、自分の顔を見られるストレスを回避したいから、という後ろ向きなものであるならばこそ、学校という場所はそれを健全な方向へ導いてやらなければいけない。

だから「個人の判断」ではまずいのである。

嫌なことから逃げていいのであれば、勉強だって「個人の判断」で良くなってしまうのではないか?






とは言っても、周りの大人たちがこぞって顔を隠している現在で勇気を持ってファーストペンギンになろうという子どもは希少であろう。

今なおマスクをつけ続ける大人たちよ。

あなたたちの行動は未来の世代に悪影響を与えていないか?

自分がしている行動が子どもたちに真似されることをわかっていて、それでも保身に走っていないか?

いい加減にしろ。

Shame on you.

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