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7月, 2016の投稿を表示しています

「ノート提出」について

テスト期間および学期末になると、「ノートの提出」なるものが行われるのをよく見かける。 これは読んで字のごとく、授業中に生徒が取ったノートを先生が確認するというものだ。 ノートは提出させるべきなのだろうか?今回はこれについて考える。 私の考えを言えば、どちらでもいい。 ただし私はやらない。根本的な理由は非常に主観的なものなのでこの投稿の最後に書く。 しかしもし同僚が「あなたもノートチェックをして」と言ってきたら私は聞き返すだろう。 ノート提出の目的は何ですか?と。 おそらく次のような結論になる。  メリット1 生徒が授業中にノートを正確に取るようになる。 おそらくこれが一番の動機なのではないかと私は考える。 「指導と評価の一体化」である。評価されるからノートを取る。 ここで疑問が浮かぶ。  「提出を課さなければ生徒はノートを取らないのだろうか?」 学習になるからノートを取る。先生に見られるからではない。 さらに反論が起こる。「提出を課さなければノートを取らない生徒がいる。」 なるほど、ノートを取ることは学習となり、機械的に黒板を写すだけでも多少の学習効果は得られるのかもしれない。 提出を課すことによってそういったless motivatedな生徒の背中を押そうということなのだろう。 ここで異なる学習意欲の生徒で構成されているあるクラスを仮定したい。  グループA : 提出を課されなくてもノートを取る。  グループB : 提出を課されなければノートは取らない。 実に明快な区分だが、問題はAとBの比率である。一般的にはAの方が大多数である、はずである。そうでないと、そもそもクラスの大半はあなたの板書には学習効果は無いと見限っている。 Aがマジョリティであるとすると、次のような現象が起きる。Bの生徒が、提出日ぎりぎりになってAの優秀な生徒のノートを借りてきて大慌てで写す、ということである。滑稽なことに、そのノートが必要であったはずのテストが終わった後に! これらの経験則から何が言えるだろうか。 それは、グループBの生徒は、ただ黒板を機械的にコピーするか、グループAの生徒のノートを丸写しするかのどちらかなのである。いずれにしても学習効果は期待できない。 つまり、メリット1は小さ...

定期テスト 波及効果 ~指導と評価の一体化

今回考えるのは前回取り上げた3つ目の項目の波及効果である。 つまり、テストのために生徒が特別な勉強をするかということである。 元々この概念は、例えば「現在完了はテストに出るからその勉強をする」というトップダウンの考え方である。図式すると以下のようになる。  テスト ⇒ 対策の勉強 これはあくまで生徒の視点であり、教員が意識するべきのはむしろその反対方向、つまり「授業中に現在完了について指導するからテストにも出す」というボトムアップの視点である。  指導 ⇒ テスト 教員、生徒がこれらの視点を持っていると、勉強とテストが有機的に関連し合い、理想的な相乗効果を生むと考えられる。これが「指導と評価(テスト)の一体化」である。 ここまではとてもシンプルで、一般論として納得できることだと思う。 しかし、である。上記の理屈から、使い古されたあのセリフが思い起こされるのである。   「ここ、テストに出すからしっかり勉強しておけよー」 これは「指導と評価の一体化」なのだろうか? 確かに授業中にその内容を取り扱い、生徒はテストに出る(らしい)から対策をする。 実際にテストに出題されれば、  「先生が言ったことは本当にテストに出るからしっかり話を聞こう」 となり、結果的にその教員は授業規律を保ちやすくなるかもしれない。 私はここで何を問題としようとしているのだろうか。 それは、「 しっかり勉強しておけよー 」の部分だ。 どうやって勉強をしろと言うのだろう? 表層的な暗記?それとも、応用できるほどの完全な理解? 英語教員に話を聞いてみると頻繁に耳にするのが「英語の力の多くは暗記による」というものである。これには私も同意する。英語の定期テストには暗記の努力を要する問題も少なくない。 それなのに、実際には教員が説明はするが、生徒はその場で理解はしたとしても暗記をするところまではたどりつかないことが多い。 一方テストでは対策の段階で暗記が必要であったような問題を出題する。 これでは指導と評価は一致しているとは言えない。 今一度、自分が作った、あるいは作りがちな問題がどういった対策を必要としているか検討してみよう。 暗記が必要だと思われるなら、授業ではその暗記を助長する活動をしなくてはいけない。...

定期テスト テスト作成技能向上の重要性

定期テスト作成技能は教員にとっては当たり前に身につけているものという前提があるようだ。 教員研修などにおいては授業中の指導法についてのものの方が圧倒的に多い。 加えて、校内研修と称したものには研究授業のみが該当する。 作成したテストを講評し合う機会は皆無と言っていい。 確かに、授業という動きがあるものを扱うのは体裁が良い。 変化がすぐに見て取れる。 しかし生徒にとっては教員の関心を引いて来なかったこのテストというものの方が重要である。 もちろん、授業中の指導もテスト作成も教員にとって欠くことのできない技術である。 ただ、実際の指導と較べてもテスト作成については学校現場であまりに軽視され過ぎているという印象がある。 ところで、テスト作成にあたっては以下の点を考慮すべきと考えられている。  妥当性  信頼性  波及効果 それぞれはさらに細分化され、また他にも「実行可能性」という観点もあるが、ここでは取り扱わない。 詳しい説明は専門書に譲るが、学校現場に即して簡単に言えば、  妥当性  「測りたい能力が測れているか」  信頼性  「テスト結果は環境を問わず一貫しているか」  波及効果 「生徒がテスト対策をするか」 という度合いのことと理解して差支えないだろう。 次回、まずはこの3点目の波及効果について、これがどう英語教員が持つべき心的態度に関わるのかを考えてみたい。

文法の授業 「文法解説先渡し」 & 宿題について

「和訳先渡し」授業について以前の投稿で触れた。 それならば、文法解説も「先渡し」してしまおうというのが趣旨である。 従来の先渡しの問題点は、生徒がそれを読んでいるという保証がないことであった。 そのために、「リスニングストップ」という方法を提案した。 「文法解説先渡し」でそれをするのは効果的ではない。 というのも解説はおそらく日本語で書かれているだろうからだ。日本語を音読するのは英語教師の本望ではない。 こういう学習は授業外の時間を使わせるに限る。 つまり、宿題にするのである。 宿題を出す時の注意点は何か? それは、 宿題をやってこないと困る仕組み を作ることである。 「先渡し」のプリントと対になっているテストを次の授業の最初に実施すればいいのである。 ここでは「最初に」というのが重要である。なぜか? 生徒にとってはテストの結果が重要である。 それを最初に行わないことは、他を差し置いてでも授業中に「内職」をすることを助長する。 そういった行動は叱責してやめさせなければいけない。 しかしそれはお互いにストレスであるし、経験浅い教員にはなかなか難しいことかもしれない。 重要なので繰り返すが、宿題の確認活動(答え合わせ、テストもしくは提出)は、次の授業の一番最初に実施する。 答え合わせをしようとしたらクラスの半分もやってきていないという場面に出くわすことがある。 そういうときでも、半分以下のやってきた生徒のためにズイズイと答え合わせを敢行するべきなのである。 もちろんその後、半数以上も未完で授業に臨んできていることをただの生徒の怠慢と捉えず、次回は全員がやってくるような宿題に改良するという姿勢が英語教員には求められる。 さて、「文法解説先渡し」⇒「確認テスト」という仕組みを作ると、今までの文法解説が1/2どころか1/3ほどの時間で終わってしまうことに気づく。 その余った時間で何をするか?それは楽しみなことでもあり、ある意味怖いことでもある。