「ノート提出」について
テスト期間および学期末になると、「ノートの提出」なるものが行われるのをよく見かける。
これは読んで字のごとく、授業中に生徒が取ったノートを先生が確認するというものだ。
ノートは提出させるべきなのだろうか?今回はこれについて考える。
私の考えを言えば、どちらでもいい。
ただし私はやらない。根本的な理由は非常に主観的なものなのでこの投稿の最後に書く。
しかしもし同僚が「あなたもノートチェックをして」と言ってきたら私は聞き返すだろう。
ノート提出の目的は何ですか?と。
おそらく次のような結論になる。
メリット1 生徒が授業中にノートを正確に取るようになる。
おそらくこれが一番の動機なのではないかと私は考える。
「指導と評価の一体化」である。評価されるからノートを取る。
ここで疑問が浮かぶ。
「提出を課さなければ生徒はノートを取らないのだろうか?」
学習になるからノートを取る。先生に見られるからではない。
さらに反論が起こる。「提出を課さなければノートを取らない生徒がいる。」
なるほど、ノートを取ることは学習となり、機械的に黒板を写すだけでも多少の学習効果は得られるのかもしれない。
提出を課すことによってそういったless motivatedな生徒の背中を押そうということなのだろう。
ここで異なる学習意欲の生徒で構成されているあるクラスを仮定したい。
グループA : 提出を課されなくてもノートを取る。
グループB : 提出を課されなければノートは取らない。
実に明快な区分だが、問題はAとBの比率である。一般的にはAの方が大多数である、はずである。そうでないと、そもそもクラスの大半はあなたの板書には学習効果は無いと見限っている。
Aがマジョリティであるとすると、次のような現象が起きる。Bの生徒が、提出日ぎりぎりになってAの優秀な生徒のノートを借りてきて大慌てで写す、ということである。滑稽なことに、そのノートが必要であったはずのテストが終わった後に!
これらの経験則から何が言えるだろうか。
それは、グループBの生徒は、ただ黒板を機械的にコピーするか、グループAの生徒のノートを丸写しするかのどちらかなのである。いずれにしても学習効果は期待できない。
つまり、メリット1は小さいのである。確認に費やす教員の時間的コストのデメリットに見合うとは思えない。もっと創造的なことをしよう。
そもそも、全員が同じことを書いているものを見て確認印を押すという作業ほど魅力的でないものはない。
コミュニケーションを教えているのなら、全員が違う答えをすることにこそ面白みを見出すべきではないだろうか。
強いてノート提出&確認の利点を挙げるとすれば、ノートの「取り方」を評価に入れることだ。
字の丁寧さを見る。そうすれば無かったはずの「違い」を生み出せる。
(字を丁寧に書くことの大切さ、それを目的の1つとしたノート添削について、田尻悟郎先生が著書*の中で解説されている。)
つまり、
メリット2 生徒のノートの取り方、字の書き方の向上につながる
の方が有益であると私は考える。
私自身が高校生のころ、定期テストで非常に良い得点を取っていたにもかかわらず、ノート提出を怠ったため評価が1つ下がったということがあった(実際にそう伝えられた)。
その時私は、「先生、おれのノートなんてなんも面白くないから見なくていいよ、そんなことに時間使わなくていいよ」と本気で思っていたものだ。
私は自分自身を所謂「メモ魔」だと思っている。書きながら考えをまとめるのが好きだ。書くこと自体が学習になっている。人に見せても見せなくても構わない。それ自体が楽しい。
そのようなスキルの成就が支援できるような授業をしたい。
*田尻悟郎「(英語)授業改革論」 2009 教育出版
これは読んで字のごとく、授業中に生徒が取ったノートを先生が確認するというものだ。
ノートは提出させるべきなのだろうか?今回はこれについて考える。
私の考えを言えば、どちらでもいい。
ただし私はやらない。根本的な理由は非常に主観的なものなのでこの投稿の最後に書く。
しかしもし同僚が「あなたもノートチェックをして」と言ってきたら私は聞き返すだろう。
ノート提出の目的は何ですか?と。
おそらく次のような結論になる。
メリット1 生徒が授業中にノートを正確に取るようになる。
おそらくこれが一番の動機なのではないかと私は考える。
「指導と評価の一体化」である。評価されるからノートを取る。
ここで疑問が浮かぶ。
「提出を課さなければ生徒はノートを取らないのだろうか?」
学習になるからノートを取る。先生に見られるからではない。
さらに反論が起こる。「提出を課さなければノートを取らない生徒がいる。」
なるほど、ノートを取ることは学習となり、機械的に黒板を写すだけでも多少の学習効果は得られるのかもしれない。
提出を課すことによってそういったless motivatedな生徒の背中を押そうということなのだろう。
ここで異なる学習意欲の生徒で構成されているあるクラスを仮定したい。
グループA : 提出を課されなくてもノートを取る。
グループB : 提出を課されなければノートは取らない。
実に明快な区分だが、問題はAとBの比率である。一般的にはAの方が大多数である、はずである。そうでないと、そもそもクラスの大半はあなたの板書には学習効果は無いと見限っている。
Aがマジョリティであるとすると、次のような現象が起きる。Bの生徒が、提出日ぎりぎりになってAの優秀な生徒のノートを借りてきて大慌てで写す、ということである。滑稽なことに、そのノートが必要であったはずのテストが終わった後に!
これらの経験則から何が言えるだろうか。
それは、グループBの生徒は、ただ黒板を機械的にコピーするか、グループAの生徒のノートを丸写しするかのどちらかなのである。いずれにしても学習効果は期待できない。
つまり、メリット1は小さいのである。確認に費やす教員の時間的コストのデメリットに見合うとは思えない。もっと創造的なことをしよう。
そもそも、全員が同じことを書いているものを見て確認印を押すという作業ほど魅力的でないものはない。
コミュニケーションを教えているのなら、全員が違う答えをすることにこそ面白みを見出すべきではないだろうか。
強いてノート提出&確認の利点を挙げるとすれば、ノートの「取り方」を評価に入れることだ。
字の丁寧さを見る。そうすれば無かったはずの「違い」を生み出せる。
(字を丁寧に書くことの大切さ、それを目的の1つとしたノート添削について、田尻悟郎先生が著書*の中で解説されている。)
つまり、
メリット2 生徒のノートの取り方、字の書き方の向上につながる
の方が有益であると私は考える。
私自身が高校生のころ、定期テストで非常に良い得点を取っていたにもかかわらず、ノート提出を怠ったため評価が1つ下がったということがあった(実際にそう伝えられた)。
その時私は、「先生、おれのノートなんてなんも面白くないから見なくていいよ、そんなことに時間使わなくていいよ」と本気で思っていたものだ。
私は自分自身を所謂「メモ魔」だと思っている。書きながら考えをまとめるのが好きだ。書くこと自体が学習になっている。人に見せても見せなくても構わない。それ自体が楽しい。
そのようなスキルの成就が支援できるような授業をしたい。
*田尻悟郎「(英語)授業改革論」 2009 教育出版
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