言語運用能力を高めるには
オーラルイントロダクションやナチュラルアプローチによって自然発生的な言語習得の機会を提供することは、日本のような英語が外国語である環境ではインプットの量が少ないために難しい、あるいは費用対効果が低いという主張をした。
ではどのような指導法がより効果的に生徒の英語運用能力を高めることができるであろうか。以下2つの候補について検討する。
1. 文法訳読式
2. タスクベーストアプローチ
1. 文法訳読式、つまり明示的に言語内容に焦点を当てた日本従来からの教授法は"Focus on Forms"と呼ばれこともある。
この教授法の利点は「指導者を選ばない」ことである。生徒よりも高度な英語の知識が教える側にある限りはこの教授法を使用することができる。
ただし、文法や語彙を日本語で理解しても実際に運用する場面では機能せず、「使えない英語」として批判されてきた。
さらに言えば、生成AIをはじめ、人間の産出する言語と遜色ないものが人間以外から容易に手に入る時代に、果たして文法や語彙について人間から「教わる」必要があるのかという根本的な疑問がある。
教える側の技術的な問題により、当面の間文法訳読式は日本の英語の教室からなくなることはないと予想されるが、それは英語運用力を高めるという本来の目的から生まれた環境ではない。そのため、時間の問題でこの指導法は淘汰されていくだろう。
2. タスクベーストアプローチは、第2言語習得を「特定の課題を達成する過程で必然的に発生するもの」として捉え、基本的には言語そのものには焦点を当てない。ただし必要に応じて生徒の注意を文法や語彙に向けさせることもあるため、そのアプローチを前述のものと対比して"Focus on Form"と呼ぶこともある。
例えば課題を「りんごを3個買う」と設定すれば生徒同士(または対教師)の対話は以下のようになる。
A: I would like to buy three apples.
B: OK. That will be 800 yen.
A: Here you are.
B: Thank you.
タスクベーストアプローチのジレンマは、課題さえ解決できれば使用された言語自体は問わないということである。極端に言えば、以下のような対話であっても「りんごを3個買う」という目的は達成される。
A: Three apples, please.
B: 800 yen.
A: OK:
英語教師の立場からは一つ目の例のような"would like to"を使って欲しい。
そこで、「買い物の場面では"would like to"を使いましょう」と促し、「買い物」という課題に言語的な制限を設ける。これが"Focus on Form"である。
しかしそうすることによって失われるものもある。言語を自らのニーズに基づいて産出するという「自発性」である。
前回はナチュラルアプローチやオーラルイントロダクションが「不自然」なものであるという主張をした。私が「自然」であることにこだわる理由は何か。
生物は刺激に対し行動し目的を達成するとその行動を強化する。刺激とは空腹や外敵の脅威など生命維持に関わるニーズに基づく。
ある原始人が食料を求めて歩き回る。たまたま通りかかった木に食べられる実を見つけると、他にも同じような木があるのではないかと似たような場所を探すようになる。歩き回るという行動が強化される。
例えばそこで誰かが「歩くなら靴を履いた方が良い」とアドバイスをしたとする。食料を求める者は履き慣れない靴を履いてみる。再び木の実を見つける。次の日、靴を履き忘れる。しかし相変わらず別の木の実を見つける。次の日、彼はわざわざ慣れない靴を履かないだろう。それがなくても本来のニーズを達成できるのだから。
英語教師が「"would like to"を使いましょう」とアドバイスするのは原始人に靴を履きましょうというのに似ている(生徒が原始人という意味ではなくて)。
同様に教室の場面では、必要がないから"would like to"を使わなくなるだろう。
しかしそればかりに気を取られると、実際に起こっていることを見逃してしまう。
教師が「〜をしましょう」と促した瞬間、生徒の目標は「教師の期待に応える」ということに変化し、「必要なものを手に入れる」というニーズ(ここではそれ自体が教室内で押し付けられた人工的なものではあるが)が薄れてしまうのである。
極論かもしれないが、その場合に強化される生徒の行動は、「教師の期待を感じ取ること」である。生徒が自然な形で言語を運用する場面では可能な限り他の要素を排除した方が良い。
強化したい行動を明確にした方が良いということである。
では生徒の言語的なエラーや不完全さを全て見逃すべきなのか?
しかしいわゆるbroken Englishを放置すると、生徒の英語の化石化("fossilizatoin")を招いてしまう。
文科省の受け売りではないが、英語運用能力にはいわゆる読む聞く書く話すの4技能だけでなく、プレゼンテーションの技術も求められる。
プレゼンテーションのdeliveryにはより洗練された文法や語彙も当然含まれる。そのため、英語教師は生徒が産出する英語そのものを洗練させていく責任がある。
"Focus on Form"と「自発性による行動強化」を両立させるにはどうすれば良いのだろうか。
次回考察したい。
ではどのような指導法がより効果的に生徒の英語運用能力を高めることができるであろうか。以下2つの候補について検討する。
1. 文法訳読式
2. タスクベーストアプローチ
1. 文法訳読式、つまり明示的に言語内容に焦点を当てた日本従来からの教授法は"Focus on Forms"と呼ばれこともある。
この教授法の利点は「指導者を選ばない」ことである。生徒よりも高度な英語の知識が教える側にある限りはこの教授法を使用することができる。
ただし、文法や語彙を日本語で理解しても実際に運用する場面では機能せず、「使えない英語」として批判されてきた。
さらに言えば、生成AIをはじめ、人間の産出する言語と遜色ないものが人間以外から容易に手に入る時代に、果たして文法や語彙について人間から「教わる」必要があるのかという根本的な疑問がある。
教える側の技術的な問題により、当面の間文法訳読式は日本の英語の教室からなくなることはないと予想されるが、それは英語運用力を高めるという本来の目的から生まれた環境ではない。そのため、時間の問題でこの指導法は淘汰されていくだろう。
2. タスクベーストアプローチは、第2言語習得を「特定の課題を達成する過程で必然的に発生するもの」として捉え、基本的には言語そのものには焦点を当てない。ただし必要に応じて生徒の注意を文法や語彙に向けさせることもあるため、そのアプローチを前述のものと対比して"Focus on Form"と呼ぶこともある。
例えば課題を「りんごを3個買う」と設定すれば生徒同士(または対教師)の対話は以下のようになる。
A: I would like to buy three apples.
B: OK. That will be 800 yen.
A: Here you are.
B: Thank you.
タスクベーストアプローチのジレンマは、課題さえ解決できれば使用された言語自体は問わないということである。極端に言えば、以下のような対話であっても「りんごを3個買う」という目的は達成される。
A: Three apples, please.
B: 800 yen.
A: OK:
英語教師の立場からは一つ目の例のような"would like to"を使って欲しい。
そこで、「買い物の場面では"would like to"を使いましょう」と促し、「買い物」という課題に言語的な制限を設ける。これが"Focus on Form"である。
しかしそうすることによって失われるものもある。言語を自らのニーズに基づいて産出するという「自発性」である。
前回はナチュラルアプローチやオーラルイントロダクションが「不自然」なものであるという主張をした。私が「自然」であることにこだわる理由は何か。
生物は刺激に対し行動し目的を達成するとその行動を強化する。刺激とは空腹や外敵の脅威など生命維持に関わるニーズに基づく。
ある原始人が食料を求めて歩き回る。たまたま通りかかった木に食べられる実を見つけると、他にも同じような木があるのではないかと似たような場所を探すようになる。歩き回るという行動が強化される。
例えばそこで誰かが「歩くなら靴を履いた方が良い」とアドバイスをしたとする。食料を求める者は履き慣れない靴を履いてみる。再び木の実を見つける。次の日、靴を履き忘れる。しかし相変わらず別の木の実を見つける。次の日、彼はわざわざ慣れない靴を履かないだろう。それがなくても本来のニーズを達成できるのだから。
英語教師が「"would like to"を使いましょう」とアドバイスするのは原始人に靴を履きましょうというのに似ている(生徒が原始人という意味ではなくて)。
同様に教室の場面では、必要がないから"would like to"を使わなくなるだろう。
しかしそればかりに気を取られると、実際に起こっていることを見逃してしまう。
教師が「〜をしましょう」と促した瞬間、生徒の目標は「教師の期待に応える」ということに変化し、「必要なものを手に入れる」というニーズ(ここではそれ自体が教室内で押し付けられた人工的なものではあるが)が薄れてしまうのである。
極論かもしれないが、その場合に強化される生徒の行動は、「教師の期待を感じ取ること」である。生徒が自然な形で言語を運用する場面では可能な限り他の要素を排除した方が良い。
強化したい行動を明確にした方が良いということである。
では生徒の言語的なエラーや不完全さを全て見逃すべきなのか?
しかしいわゆるbroken Englishを放置すると、生徒の英語の化石化("fossilizatoin")を招いてしまう。
文科省の受け売りではないが、英語運用能力にはいわゆる読む聞く書く話すの4技能だけでなく、プレゼンテーションの技術も求められる。
プレゼンテーションのdeliveryにはより洗練された文法や語彙も当然含まれる。そのため、英語教師は生徒が産出する英語そのものを洗練させていく責任がある。
"Focus on Form"と「自発性による行動強化」を両立させるにはどうすれば良いのだろうか。
次回考察したい。
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