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パラフレーズ

パラフレーズ・・・言い換えである。 教科書の英語を意味を大まかに維持しながら日本語を介さずに別の言い方をすることである。 例えば"Being one of the oldest buildings, Horyuji attracts countless people."という英文があるとする。 文法の視点からは分詞構文が、語彙の側面からはattractsとcountlessがやや難解である。 例えば以下のようにパラフレーズすることができるだろう: "'Being one of the oldest buildings' means 'Because it is one of the oldest buildings.' 'Attract' means 'to have attention of,' and 'countless' means 'a number of.'" あるいはより大きな枠組みで、"In other words, 'Because it is one of the oldest buildings, Horyuji has attention of a number of people.'"と言ってもよい。 パラフレーズの利点は、インプットを増やせることの他に、この活動自体が意味のあるコミュニケーションになることであろう。発言が相手に伝わらない場合、別の表現で言い換えることができるとすればその技術は大切である。 さて授業中にこの活動を取り入れる場合どうすればよいか。 まずい手順は、いきなり生徒に特定の英語を別の表現で言わせたり書かせたりすることだろう。まずはパラフレーズということに慣れさせた方がよい。 そして最小限のプリント枚数で授業を進行するためにも、この活動でプリントを発行しないことにする。ノートを活用したい。 <手順> 1.本文中の特定の英語のパラフレーズを板書しノートに書き取らせる(4~5個)。 2.生徒は教科書からパラフレーズされた元の文を探し、その箇所に線を引き該当する番号を書く。(正解を統一するために、正解が何語にな...

英語の予習

「自分たちのころは英語は予習してくるのが当たり前だった」 「今の生徒は予習をしてこない」 と嘆く声を聞いてきた。 しかしここで疑問が浮かぶ。 「何をもって予習とするのだろう?」 話を聞いてきた印象では、どうも「予習」とは教科書の英文をノートに写し、単語の意味を辞書で引いて調べてくることを指しているようだ。 前者は授業中に教員が解説する内容を書き込むため、後者は和訳活動が滞りなく進行するための前提を作っていると思われる。 実際の「学習」は授業中の教員の解説が主となり、予習自体に学習効果を期待していないように思われる。 英文を写すことは定着に寄与するといった議論や、辞書を引く行為は言語学習で重要なスキルであるという主張がある。 前者はともかく、後者に関しては「予習」ではない。「予め習う」のであれば、授業中にはそのスキルの指導と評価がなくてはならない。恐らくそうはならず、あくまで和訳のための単語である。 しかも、多義語の複数の定義の中から英文に即したものを選ぶには英文のある程度の理解が必要である。これを初見の英文で求めるのだろうか? 本文を写す活動も「予習」とは言い難い。意味の分からない英文を機械的にノートに転写したところで、学習が起きていると考えるほど我々はナイーブではない。 こういった事情を考慮すると、生徒には予習よりも復習を課した方が良いのだろう。 もちろん、生徒の習熟度が上がってくればより複雑な予習を課すこともできる。 例えば、授業中に地球温暖化について議論をするので、youtubeで関連する動画を視聴し、その内容を授業中に英語で共有する、といったことだ。海外のEnglish for Specific Purposes(ESP)の授業ではこういった手法がとられることもあるだろう。 ここまでを日本の英語教育で求めることができれば素晴らしい。 ただし、指導をする以上評価をしなければならない。youtubeの動画と同じ質・量の英語を教員が扱えなければ生徒に適切なフィードバックを与えることは難しいだろう。 生徒に課す予習の内容は教員の実力を反映するということなのだろう。

声を出す活動の節度

「英語の授業で生徒の発話量を増やそう」 というスローガンが掲げられて久しい。 それはいわゆる文法訳読式の授業に対する批判であった。 英語の授業の主眼は生徒が英語を話せるようにすることだと人々が言い始めたのだ。 それでは、英語の授業はとにかく「発話量」を増やしさえすればいいのだろうか? 答えは、状況によってYesで、あるいはNoである。 生徒が発話する活動は以下のような例が挙げられる:  ・語句、英文の音読/暗誦  ・パッセージに関する応答  ・意見交換などのフリースピーチ   たとえば上記の活動を立て続けに実行し50分を終えることができるなら、それはまさに発話重視の授業であり、生徒の発話を向上させるのに特化している。それはそれでよいと思う。 実際はこうは行かないということが問題である。 おそらく、語句の発話練習をした後にパッセージを読み内容を理解しようとし、質問に答え、英文を暗記し・・・。いろいろな要素があるのである。 大まかに言うと、4技能である。「話す」「読む」「書く」「聞く」という要素が混在する。 さて、実際に授業をしていて感じるのだが、音声媒体の「話す」活動と、文字媒体の「読む」「書く」という活動を交互に行ったり来たりすると、生徒の消耗が激しい。 これは想像に難しくない。一度発声して温まった身体が読解作業で冷え、そのあとにもう一度声を出すときに身体が疲労を感じるのだ。 この問題の解決のためにどうすればよいのだろうか? 1つは「話す」活動が数種類に及ぶ場合、できる限りそれらを連続して行うことだ。 高校の英語の授業で起こりがちと思われるのがまさに上述したような、語句の発音練習の後に読解に移る形式である。 そこでこの順番を変え、以下のようにする。  1.語句の意味を確認する。 コーラスなどの発話は行わない 。  2.その語句の理解を活用して読解活動に移る。  3.読解活動の成果を活用して、語句を文脈のなかで発話練習をする。  4.パッセージに関する発話活動をする。 語句を導入すると即座に発音練習をしたくなる気持ちを抑え、静かに次の活動に移るのがよい。 「発話量を増やす」とはいついかなる時も英語を発声すればいいというわけではない。 活動の組み合わせを考え、質、量の隔たりが大きく...

文法の指導 「合いの手メソッド」

「文法の指導」という言葉を聞いたとき、どういった状況を想像するだろうか? 一般的に行われていることはおそらく、演繹的にルールを解説して生徒に応用させるか、帰納的に例文の中からルールを生徒に発見させ、その後にまとめの解説をするかだろう。 後者の帰納的アプローチは、かつてブームとなった「オーラルアプローチ」を思い出させる。 いずれにせよ、この文法の「理解」が終わったあとに「言語活動」と呼ばれるような、当該の文法事項を活用してのコミュニカティブタスクが行われる、というのが私の印象である。 私も実を言うと最近まで、この手順に何の疑念も差し挟まなかった。まずは文法を理解し、次に繰り返し使用をして定着を図る。至極当然のように思われた。 しかし、自分自身が英語を話す機会を持つたびに、事実はどうもこうではないような気がしてきた。 「定着」はそれほど簡単に達成されないということだ。 第2言語習得研究の世界で使われる言葉は「暗示的知識 "implicit knowledge"」である。「明示的知識 "explicit knowledge"」、つまり明文化できる知識が暗示的知識に変わるのにはかなりの量の使用が必要であるという研究もあれば、あるいは明示的知識は暗示的知識には決して変化しないと言っている学者もいる。 われわれ英語を外国語として学んでいる者には期待できることではない。発話する以上は、常に文法フィルターを最大限意識的に使用しなければいけない。 そこで、生徒の発話に「補助輪」を付けようというのが、この合いの手メソッドである。 <手順> 1.英文を解説する。 2.文法、日本語訳の確認をする。 3.発音の確認をする。 4.暗誦をする。同時に、教員が「合いの手」を入れる。 <例> 1."I should tell you that she's waiting for you in that big restaurant across the street." という英文を暗誦させることを目標とする。 2.文法と日本語訳を大まかに解説する。板書してもよい。 3.個々の発音の確認、練習をする。 4.(1)コーラス練習に入る前に、もう一度文法解説をする。 (...

「ノート提出」について

テスト期間および学期末になると、「ノートの提出」なるものが行われるのをよく見かける。 これは読んで字のごとく、授業中に生徒が取ったノートを先生が確認するというものだ。 ノートは提出させるべきなのだろうか?今回はこれについて考える。 私の考えを言えば、どちらでもいい。 ただし私はやらない。根本的な理由は非常に主観的なものなのでこの投稿の最後に書く。 しかしもし同僚が「あなたもノートチェックをして」と言ってきたら私は聞き返すだろう。 ノート提出の目的は何ですか?と。 おそらく次のような結論になる。  メリット1 生徒が授業中にノートを正確に取るようになる。 おそらくこれが一番の動機なのではないかと私は考える。 「指導と評価の一体化」である。評価されるからノートを取る。 ここで疑問が浮かぶ。  「提出を課さなければ生徒はノートを取らないのだろうか?」 学習になるからノートを取る。先生に見られるからではない。 さらに反論が起こる。「提出を課さなければノートを取らない生徒がいる。」 なるほど、ノートを取ることは学習となり、機械的に黒板を写すだけでも多少の学習効果は得られるのかもしれない。 提出を課すことによってそういったless motivatedな生徒の背中を押そうということなのだろう。 ここで異なる学習意欲の生徒で構成されているあるクラスを仮定したい。  グループA : 提出を課されなくてもノートを取る。  グループB : 提出を課されなければノートは取らない。 実に明快な区分だが、問題はAとBの比率である。一般的にはAの方が大多数である、はずである。そうでないと、そもそもクラスの大半はあなたの板書には学習効果は無いと見限っている。 Aがマジョリティであるとすると、次のような現象が起きる。Bの生徒が、提出日ぎりぎりになってAの優秀な生徒のノートを借りてきて大慌てで写す、ということである。滑稽なことに、そのノートが必要であったはずのテストが終わった後に! これらの経験則から何が言えるだろうか。 それは、グループBの生徒は、ただ黒板を機械的にコピーするか、グループAの生徒のノートを丸写しするかのどちらかなのである。いずれにしても学習効果は期待できない。 つまり、メリット1は小さ...

定期テスト 波及効果 ~指導と評価の一体化

今回考えるのは前回取り上げた3つ目の項目の波及効果である。 つまり、テストのために生徒が特別な勉強をするかということである。 元々この概念は、例えば「現在完了はテストに出るからその勉強をする」というトップダウンの考え方である。図式すると以下のようになる。  テスト ⇒ 対策の勉強 これはあくまで生徒の視点であり、教員が意識するべきのはむしろその反対方向、つまり「授業中に現在完了について指導するからテストにも出す」というボトムアップの視点である。  指導 ⇒ テスト 教員、生徒がこれらの視点を持っていると、勉強とテストが有機的に関連し合い、理想的な相乗効果を生むと考えられる。これが「指導と評価(テスト)の一体化」である。 ここまではとてもシンプルで、一般論として納得できることだと思う。 しかし、である。上記の理屈から、使い古されたあのセリフが思い起こされるのである。   「ここ、テストに出すからしっかり勉強しておけよー」 これは「指導と評価の一体化」なのだろうか? 確かに授業中にその内容を取り扱い、生徒はテストに出る(らしい)から対策をする。 実際にテストに出題されれば、  「先生が言ったことは本当にテストに出るからしっかり話を聞こう」 となり、結果的にその教員は授業規律を保ちやすくなるかもしれない。 私はここで何を問題としようとしているのだろうか。 それは、「 しっかり勉強しておけよー 」の部分だ。 どうやって勉強をしろと言うのだろう? 表層的な暗記?それとも、応用できるほどの完全な理解? 英語教員に話を聞いてみると頻繁に耳にするのが「英語の力の多くは暗記による」というものである。これには私も同意する。英語の定期テストには暗記の努力を要する問題も少なくない。 それなのに、実際には教員が説明はするが、生徒はその場で理解はしたとしても暗記をするところまではたどりつかないことが多い。 一方テストでは対策の段階で暗記が必要であったような問題を出題する。 これでは指導と評価は一致しているとは言えない。 今一度、自分が作った、あるいは作りがちな問題がどういった対策を必要としているか検討してみよう。 暗記が必要だと思われるなら、授業ではその暗記を助長する活動をしなくてはいけない。...

定期テスト テスト作成技能向上の重要性

定期テスト作成技能は教員にとっては当たり前に身につけているものという前提があるようだ。 教員研修などにおいては授業中の指導法についてのものの方が圧倒的に多い。 加えて、校内研修と称したものには研究授業のみが該当する。 作成したテストを講評し合う機会は皆無と言っていい。 確かに、授業という動きがあるものを扱うのは体裁が良い。 変化がすぐに見て取れる。 しかし生徒にとっては教員の関心を引いて来なかったこのテストというものの方が重要である。 もちろん、授業中の指導もテスト作成も教員にとって欠くことのできない技術である。 ただ、実際の指導と較べてもテスト作成については学校現場であまりに軽視され過ぎているという印象がある。 ところで、テスト作成にあたっては以下の点を考慮すべきと考えられている。  妥当性  信頼性  波及効果 それぞれはさらに細分化され、また他にも「実行可能性」という観点もあるが、ここでは取り扱わない。 詳しい説明は専門書に譲るが、学校現場に即して簡単に言えば、  妥当性  「測りたい能力が測れているか」  信頼性  「テスト結果は環境を問わず一貫しているか」  波及効果 「生徒がテスト対策をするか」 という度合いのことと理解して差支えないだろう。 次回、まずはこの3点目の波及効果について、これがどう英語教員が持つべき心的態度に関わるのかを考えてみたい。

文法の授業 「文法解説先渡し」 & 宿題について

「和訳先渡し」授業について以前の投稿で触れた。 それならば、文法解説も「先渡し」してしまおうというのが趣旨である。 従来の先渡しの問題点は、生徒がそれを読んでいるという保証がないことであった。 そのために、「リスニングストップ」という方法を提案した。 「文法解説先渡し」でそれをするのは効果的ではない。 というのも解説はおそらく日本語で書かれているだろうからだ。日本語を音読するのは英語教師の本望ではない。 こういう学習は授業外の時間を使わせるに限る。 つまり、宿題にするのである。 宿題を出す時の注意点は何か? それは、 宿題をやってこないと困る仕組み を作ることである。 「先渡し」のプリントと対になっているテストを次の授業の最初に実施すればいいのである。 ここでは「最初に」というのが重要である。なぜか? 生徒にとってはテストの結果が重要である。 それを最初に行わないことは、他を差し置いてでも授業中に「内職」をすることを助長する。 そういった行動は叱責してやめさせなければいけない。 しかしそれはお互いにストレスであるし、経験浅い教員にはなかなか難しいことかもしれない。 重要なので繰り返すが、宿題の確認活動(答え合わせ、テストもしくは提出)は、次の授業の一番最初に実施する。 答え合わせをしようとしたらクラスの半分もやってきていないという場面に出くわすことがある。 そういうときでも、半分以下のやってきた生徒のためにズイズイと答え合わせを敢行するべきなのである。 もちろんその後、半数以上も未完で授業に臨んできていることをただの生徒の怠慢と捉えず、次回は全員がやってくるような宿題に改良するという姿勢が英語教員には求められる。 さて、「文法解説先渡し」⇒「確認テスト」という仕組みを作ると、今までの文法解説が1/2どころか1/3ほどの時間で終わってしまうことに気づく。 その余った時間で何をするか?それは楽しみなことでもあり、ある意味怖いことでもある。

文法解説あるある

ところで、文法解説は一般的にどのように行われているだろうか。 1.最も普遍的な方法は、英文すべてを板書し、隙間に色を変えて書き込みをするスタイルだろう。 書き込む内容は、       日本語訳  SVOCM  品詞  修飾語句と被修飾語句の関係(囲んで線を結ぶやり方をよく見かける) 等だ。こういうことを網羅すれば概ね「文法」的な解説は終わったと考えられている(同時に、試験範囲の学習が「終わった」と宣言される)。 2.上記の方法をもう少し精選して、重要な構文等を含む英文だけを板書して解説を書き込むスタイルもある。 3.もう一つ挙げるとすれば、プロジェクターで英文を投影して、そこにチョークなどで書き込みを「重ねて」いく方法だ(が、実際にやっている人を見たことがない)。 いずれにしても、どうせ書くことが決まっているならプリントにまとめて配ってしまえば十分なはずだが、英語教師の直感で、それは良くないと判断する。そして毎時間同じ内容を丁寧に板書して解説をする。 つまり、プリントを配って読んでおけと指示するだけでは、生徒は何もしてこないということがわかっているのだ。 反対に、読まざるを得ない仕組み作りさえすれば、文法の解説はプリント配布で終わるのではないだろうか? という仮説に基づくのが次回提案する方法である。

文法解説の必要性

どれだけ言語使用の場面を増やせと言われても、肝心の言語そのものの学習がおろそかになってはいけない。 いわゆる「文法」の学習である。 「文法」が何を指すかは別の議論であるが、少なくとも言語が様々なルールの組み合わせにより一定の法則で機能しているということを理解する必要はある。 そして、実際の授業実施に付随する問題として、「文法」学習をおろそかにしていると生徒が「勉強した」という感覚を持ちづらいということがある。 私も陥った過ちだが、英語は細かくチャンクに分けて日本語と共に提示して音読、暗誦の練習をすれば、帰納的に言語のルールは身につくだろうと想定した授業をしていたことがあった。 必然的にワークシート中心の授業となり、ノートに何かを記録していく活動はほとんど無かった。 黒板を文字だらけにして生徒がノートに必死に書き写している同僚の授業を見て、「自分はコミュニカティブだ、先進的だ」などと悦に入っていたのも束の間、学期終わりの生徒アンケートに「~先生(同僚の名前が入る)みたいに、文法の解説を詳しくしてほしい」と書いてあるのを読んだとき、その時は生意気に「何を言っているんだ、あんなやり方では英語は喋れるようにはならない」などと思ったものだが、今振り返ってみて、あのコメントにこそ学習者の不安が隠されているように感じる。 もちろん、50分ほぼ全てを教師が一方的に説明を続けるような授業は良くない。それを別のクラスで何度も繰り返すならいっそ録画して放送する方が建設的だ。 大切なのは言うまでもなくバランスである。生徒が言語を使用することによって文法の理解が深まり、リアルタイムで運用できるようになることを目標とするべきである。 では、最適な「バランス」とはどのくらいなのであろうか?その方法は? 試行錯誤の末、ある方法にたどり着いた。次の投稿で紹介したい。

Half & Half (文法系授業)

<手順> 1.ペアのうち一人は英文を見て(生徒A)、もう一人は見ることが出来ない(生徒B)と伝える。 2.教師が英文を一つ読み上げる。 3.Aはその文をもう一度、途中の好きな所まで読み上げる。 4.Bは教師が読み上げた英文を思い出しながら、Aが読み上げた後の残りを暗唱する。   <例> 教師: In order to promote the new artist, the company puts a lot of advertisement on various forms of media. 生徒A: In order to promote the new artist, the company… 生徒B: …puts a lot of advertisement on various forms of media. 生徒A:正解。 教師:じゃあ、パートを交代して次の文。       <補足>   いわゆる「文法」の教科書は、あるターゲットの文法(例えば完了形や分詞など)を1つの課で排他的に取り扱うため、その文法や概念を使用した例文や演習問題が複数与えられているのが通常である。 そこまでは理解できるが、その1文1文を見るにつれ、それらが何ら相互の関連性も無く連なっていることに気づくことも少なくない。 今手元にある英語表現Iの教科書を手に取って開いてみると、すぐに以下のような演習問題の連続を見つけた(英文は省略)。  1.部屋は煙でいっぱいだ。    2.父親は試合の結果にがっかりしている。 受動態の連語(be filled withとbe disappointed at)といった共通項があるのだろう。 そこにはおよそ文脈というものは無い、あるいはあるにしてもかなり突っ込んだ想像力を駆使しなければならない(父親は応援しているチームが勝たないと煙草を数多く吸う、など)。 コミュニカティブな授業をしようとしている教員はそこでつまづく。教科書と離れたアクティビティを考えればいいという考えもあるかもしれないが、定期テストや同僚の授業のやり方に押されて...

ペアの組み方 "Two Circles"

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50分座っているのは眠気の元である。 どこかのタイミングで生徒が立ち上がるなり動くなりする機会があると良いのだが、高校生になるとこういう活動がなかなかしづらくなる。 とは言え、身体を動かしながらの英語の発話練習の効果は、習熟した英語学習者ほど肯定するところだろう。有意義な形で生徒を動かそう。 <概要> 1.2グループに分かれ、大円とその内側に小円を作り向かい合う。 2.内側の生徒が、向かい合っている外側の生徒に質問をする。 (制限時間を15秒程度とし、教員がその終わりの合図を出す。) 3.正解したら内と外が入れ替わる。 4.内側の小円のみ、時計回りに動く。 <ねらい、利点> ・ペア交換がスムーズ。 ・反復が必要な課題に効果的。 ・ペアを次々と変えることで、生徒がさぼったり余計なおしゃべりをすることを防ぐ。 ・スペースさえ許せば、クラスサイズに影響されずに実行できる。 ・内側か外側かで、誰が正解しているかわかる。 ・生徒人数が奇数の場合教員が混ざると楽しい。